理系だもの

日常起こったことについて、誰もが何かしら自分の意見を持つと思います(そのことが自分にとって良い・悪い等)。しかし、働いていると、同じ目標を目指すため、周りに合わせねばならないという風潮に従わざるを得ないです(これが団体行動の良い点でもあり悪い点でもあります)。せめてブログでは、自分の思ったことをのびのびと書きたいと思い、始めました。文章を書く訓練もかねて、分かりやすい記事を書くよう努力します。テーマは主に最近話題のもの・ことに対する解説+意見。たまに中の人の旅行記事、衝動に任せて書いた物申す記事を書きます

道徳教育は当事者意識がなきゃ意味がないと思う

どうも、理系です。

 

この漫画を読んで衝撃を受けました。

 

いじめって、なぜなくならないんでしょう。

 

なぜ、いじめた側はノーダメージなのでしょうか?

 

 

教員による暴行恐喝事件の記憶が薄れたころだろうから、ぶり返すけれど。

教員は「人間として」完璧でなければならない

義務教育の教員は特に精神的に発達途中の子供を相手にするため、やっていいこといけないことを一貫性のある態度で示さなければならない。

 

子どもは大人が思っている以上に賢いし、大人の行動を見ているから、ごまかしたりすると、矛盾に気づくし、「屁理屈を言えばいい」と学習してしまう。

 

とはいえ、人間間違えることもある。その時に、余計なプライドを捨てて、ごめんなさいと言える人でなければ、子供たちの見本は務まらないと思う。

 

ここで、謝ったら馬鹿にされると思ってごまかしてはならない。

 

謝って、生徒に馬鹿にされたら、人を馬鹿にしてはいけないと教えるのみ。

 

これが道徳的な考えをはぐくむ最高の教材になるのではないかと思う。

 

算数を教えるのは数学の専門家、なら、道徳を教えるのは道徳的な考えができる人でしょ。当然でしょ。

 

道徳の授業は中身がなくて嫌いでした

道徳の教科書は作り話なので、「リアルさ」が足りず、第三者目線で考察しがちになるけれど、実際は当事者として考えなければならない。

 

このギャップは絶対に教科書では埋められない。

 

どんなに誰もが知っている事件を取り上げていても、当事者ではない生徒たちには「どこか遠くの世界で起きた出来事(こんな映画見たことある。くらいの感覚。)」であって、当事者として考えることはできない。

 

なのに、教員は「いじめはダメだ」「わるぐちはいけない」と壊れたカセットテープのように連呼する。お涙ちょうだい話には人が変わるほどの衝撃はない。

 

「いじめがダメ」

 

じゃあ、どうしたらいじめがなくなりますか?

 

「みんなで力を合わせて」

 

個人の能力の違いをどう生かす?

 

「悪口はいけない」

 

どうして悪口を言ってしまうの?

 

これくらいの疑問に対する答えを持っておくくらいの責任がなきゃ、「いじめはダメ」とか「悪口はいけない」と言うのは、内容を伴っていなくて説得力ゼロだなと思う。

 

理系が思う理想の道徳教育

目安箱というものをご存知だろうか?

 

知らない方は、スーパーなどにあるお客様の声の紙をイメージしていただくとありがたい。

 

南京錠でカギをかけたボックスを用意し、教室の隅か廊下に置いておく。

 

生徒に週一回白紙を渡して、人間関係の悩みごとを書いてもらう。(ただし、匿名で白紙も可)

 

教室にボックスを置いた場合はボックスをシャッフルして、再度クラスごとに分配する。(不定期に自分のクラスの物が回ってくる)

 

廊下にボックスを置いた場合は中身をランダムに各クラスに配分する。

 

道徳の授業で、先生がそれを読み上げて、何人かを指名し、それに対する考えを発表させる。

 

ここで、絶対に班で話し合いにしてはいけない。当事者意識が薄れてしまうからだ。

 

また、「○○君に悪口を言われている」というような書き込みを見つけたら、加害者と関係ない数名を当てて、「人の悪口を言うことについてどう思うか」と問う。

 

これにより、誰が書いたかが分かりにくくなるし、加害者に自分の過ちに気づかせるきっかけにもなる。

 

また、生徒の回答に先生は必ず一回、こう質問する「その考えはいいね。じゃあ、どうしたらそうなれるかな?」と。生徒により深く考えさせることも大事。

 

ボックスにはかぎがかけられており、そのカギを職員室で管理すれば、勇気を出した訴えがごみ箱に捨てられることもない(教員の人間性がまともなら)。

 

かなりエグイやり方だけど、これでも、人の心を動かせるかは微妙。