どうも、お久しぶりです。
学校が再開したことにより、通勤電車に学生さんが見られるようになりました。
学校再開早々に試験期間のようで、試験に関する愚痴を言う声が聞こえてくる事がしばしば有ります。
ということで、今回はなぜ全科目勉強しないといけないのかということについて、恐らく最も綺麗事でなく、それでいて納得できる理由を考えたので、紹介する。
「どの科目も将来の役に立つから勉強しろ」
これは、誰もが耳にしたことがあると同時に、誰もが疑ったことがある言葉だと思う。
これは、正解であるが言葉足らずだと考えている。
というのも、学生にとって、勉強に関連した将来というのが受験に限られがちだからである。
そうなると、受験以外では役に立たないと反論されてしまう。
確かに、どの科目もバランス良く良い成績を取る事により、受験に成功することができる。
いい大学に行き、世間体の良い人生(平均的な人が良い人生として掲げている平均的な人生)を送る事ができる。
また、良い成績を取る事で、将来の選択肢が広がるので、今の環境を変えねば回避できない深刻な危機(いじめ等)が起きたときに、逃げ道を多く用意できる。
しかし、世間体の良い人生を望んでいない人も存在する。
好きな事で生きていくと掲げている人達である。
全科目勉強しても役に立たないから!
とのたまっていますが、あなた、学校教育を受けなかった群と受けた群と2つ用意して科学的に適正なジャッジをしたんですか?と問いたい。
また、将来=受験と解釈したとしても、全科目勉強する価値を見出しにくい層がいる。
近年の私立大によく見られる少ない科目数で受験でき、苦手科目を捨てれる受験形式の受験生である。そういう受験生は受験でいらない科目の勉強をないがしろにする。
つまり、何の補足もなく将来の役に立つからという論には限界がある。
と思ったのだが、全く別の解釈をすると案外スッキリするのである。(少なくとも私はスッキリした)
それは、「将来、やりたくないこと、苦手なことにぶち当たったときに、どのように対処するかのトレーニング」と解釈することである。
科目数が複数あるのは、「人によって得手不得手が異なるので、これだけ数を用意すれば全員どれか一つは苦手なものが出るだろうという想定」と解釈する。
なので、私個人としては、苦手科目を捨てれる受験形式はクソだと思ってる。
なぜなら、その受験形式の提供は「苦手なことを放棄」という選択を促しているとも取れるからである。
こんな状態で社会にでては、「やらねばならん(放棄という選択肢が取れない)がやりたくない事、苦手な事」にぶち当たった時にポッキリ折れてしまう。
優秀な高学歴が就職して挫折し、仕事を辞める高学歴ニートってのは「やりたくない事、苦手な事」に対して対処する訓練ができていないからではないかと考える。
つまり、鎌倉幕府が何年にできたとか、運動方程式の何たるかが将来の役に立つのではなく、学ぶという行為に伴う挫折や苦悩が将来の役に立つのである。
さぁ、納得はいっただろうか?
多分、中高生にこれを理解しろってのは酷な話だろうなぁ…
ちなみに私は古典が苦手でした。克服はできませんでした。現国でカバーしました。はい。ブーメラン。